本田昌義さん(日本ALS協会大分支部長)が大分医科大学「医大祭」にて、1999年11月21日(日)に
講演をされました。そのときの原稿を日本ALS協会大分支部のメーリングリストで拝見させていただき、
是非、このホームページに掲載させていただけないものかと、お願いしたところ、本田さんは、快く了解
して下さいました。本田さんのご厚意に感謝いたします。

  (本田昌義さんと奥さん)   



療友達の為に行動を起こそうと決意した時に
           自分の道が開けました。」


  私は難病ALS患者です。ALSについては、既にご存じの方もおありかと思いますが、元ニューヨーク・ヤンキースの「ルゥ・ゲーリック選手」や、イギリスの天文物理学者「ホーキング博士」が罹病なさった病と申し上げれば、思い出して下さる方もおありかと存じます。
  ALSは30余りの特定疾患の一つに指定されていますが、その発症原因についても、治療方法についても現在のところまだ究明されていません。現在国内では四千数百人の療友達が、此の見えない病魔と闘っています。

  ALSは、全身の運動神経が日を追って次第に犯されてゆき、四肢は勿論食べる事も飲む事も、自分の頭さえ支える事すら出来なくなり、喋る事も他人には理解出来なくなるという、此の世に存在するのが信じられない位、残酷な病気であります。
  幸い、現在では科学や医療技術の進歩のおかげで、意志の伝達手段については此の拙文を書いている「目で打つワープロ」が開発され、呼吸管理に関しては小型の人工呼吸器が容易に使用できるようになりました。以後私達患者の療養環境が拡大した事は申すまでもありません。
  然(しか)し、それはそれとして病気が治癒したわけではありません。24時間の看護を必要としますし、何一つとして他人様の介護がなくては、事を起こせません。一部の療友達は自嘲の意味を含めて、「私は丸太ン棒人間です。」と言っていますが、私はこのように申します。「私は丸太ン棒人間ですが、他人の為に暖かい心と、自分の為の冷静な判断の出来る頭脳を持った人間です。」と。

  私の発症からの病状の進行は、典型的なALSの症状でした。
  50歳代に発症し、3年後には人工呼吸器を装着しました。思い返せば、アッと言う夢の3年間にいろいろに体験をしました。生と死についても十分考えました。
  此の体験を貴重な経験として療友達に、或いは今後罹病するであろう患者達の為に私の残余の生命を捧げて燃え尽きるのが、私の最後の使命であると心に決めました。

  「精一杯の元気と笑顔、そして感謝と希望」を合い言葉に、勇気を持って生きよう、と私は私達の機関誌「支部だより」に小文を掲載して、必ず療友達に呼び掛けています。それは、私自身が強く生きているからではなく、むしろ自分自身を叱咤するつもりで此のワープロと取り組んでいるつもりです。
  友達とは有り難いものです。病魔との戦いに敗れ谷底に突き落とされた私の這い上がる道を見つけてくれました。それは如何なる名針灸医も及ばぬツボを心得た的確なアドバイスでした。
  「過去を捨てて裸になれ!40年前に哲学だ宗教だ理論だと言って学んだのは何のためだったのか?下宿屋のおばさんに”うるさい”と小言を言われながら、紫煙の中を空きっ腹を抱えて朝まで議論をしたのは、あれは青春の甘く酸っぱい思い出なのか。」
  その日以来ワープロに向かうのが私の日課となりました。友人や知人達にひた隠しに隠してきた病気の事を思い切って知らせました。
  療友達の有り難さを再度知らされる事となりました。飛行機で、新幹線を乗り継いで、手紙を電話をと、皆が心配をしてくれていると知った時大応援団を得た思いで、立ち直る事が出来ました。
  平成6年の秋から翌年にかけて予想した通り、私の病魔との戦いは最終局面に至りました。全身を駆け巡るファシキレーションに悩まされ、一頃は、70キロもあった体重は半減し、四肢の筋肉も萎縮が見られるようになりました。ALSの特徴である、猿腕や鷲指の症状が現れたのも、この頃でした。
  発症以来今日迄、一日も欠かす事も無く「明日目が覚めれば、病気は治っているかもしれない。或いは何か奇跡が起きて突然に病気が完治するかもしれない。」と、無駄な夢を毎日みて過ごしています。だから、ALS患者のみならす難病患者には「もしかして…」と云う気が働いて、民間療法をこころみる人が多い所以であるかと思います。

  折しも、此の間に患者会(日本ALS協会大分県支部)の結成の話が遺族と患者家族の間で着々と進行しているようでした。
  こんな表現をするのも、私自身前の項で述べました通り、闘病生活は修羅場の毎日でした。先ず食事が、食べ物も飲み物も飲み込む事が出来無くなり、十分に注意しても気管の方に入れて、苦しい思いを何度も経験しました。
  遂に、主治医のご指導で、人工栄養を直接胃に流し込む「胃ろう」の手術を平成6年11月に受けました。更に病状は進行して、いよいよ呼吸が困難になり早朝に仮死状態で救急車のお世話になって、緊急入院をしました。その時に臨死体験なる貴重な体験をしました。正直に申して、今となってはあれが臨死体験なのか、夢なのか、現(うつつ)なのか、或いは単なる幻想なのか、分かりません。いずれにしても2月末に気管を切開して人工呼吸器を装着しました。

  予想した通りの病状の進行であり、家には年老いた父母もいる事も気にかかるので、看護役の妻が慣れれば帰宅して在宅療養に踏み切ろうと考えていました。しかし当時大分県下ではレスピレーターを装着して自宅で療養しているALS患者は、私の知る限りでは一人もありませんでした。人工呼吸器は病院が管理する物だと言う考え方が一般的で、療友の中には冷ややかに見ている者も有りました。然し、主治医に励まされ、数回の試験外泊の後に我が家へ落ち着いたのは、同じ年の秋真っ盛りの青空が印象的な10月の上旬でした。私は信頼できる主治医に巡り逢えた幸せを噛み締めるゆとりを持て退院しました。
  勿論、周囲の方々のお力をお借りして生活が成り立っている事は申す迄もありません。
  以後拙宅には「門前に市を成す」かの如くの賑わいとなりました。地元のテレビ局を始め、切実に自宅に帰りたい患者の家族、医療や行政関係者、はては野次馬と、まるで動物園のパンダ並の毎日でした。
  此の時に私は、もし人様のお役に立つ事であれば敢えてパンダになろうと決心をしました。
  これは私の持論ですが、「ALSは病気ではない。唯、全身の運動神経が犯された障害者です。だから介助があれば何でも出来るのです。」と。
  自宅に帰ってからは出来るだけボランティアの手を借りて行動するように、心掛けました。行政への陳情や療友達への見舞い、家族での小旅行や美術館の見学等々、上記の目的を達する為に出来るだけ、目立つように行動するように心掛けています。つい先日、6月1日から3日間ボランティア二人にお願いして、県下の療友達を3日間連続して、375キロを走り見舞ってまいりました。

  健康を唯一の売り物にしてきた私に、病気は凡そ別の世界の話と思っていました。少し働き過ぎたので、61歳以降はのんびり妻と趣味を生かした生活を心掛けようと決めていたのに、チョットしたボタンの掛け違いから、別の世界の話とばかり信じていた此の世界が、実はドアを開けた隣の部屋とは夢にも思っていませんでした。
  今後の私の使命として、此の世界の住人の為に再度働こうと決意した次第です。そして、「仕事には美学がある。夢とロマンを求めて」と、よく働いたが、此の仕事は何が「夢」で何が、「ロマン」やら、皆目見当がつきませんが皆さんのお手をお借りして出来る事柄から始めます。

  私は療友達に手紙を差し上げる時に、大要次の事を書くことにしています。「栄光ある過去は、潔く忘れなさい。そして、現在を素直な気持ちで見つめなさい。現実の自分自身をあるがままに表現しなさい。痛いときには周りに遠慮せずに、痛いと言って下さい。泣きたいときは思い切り大声で哭いて下さい。あなたの周囲の人々もあなたの我侭を許して下さるでしょう。そしてあなたも、本来のあなたらしい自分を取り戻すでしょう。」と。
  病魔との戦いに敗れても、人間という動物は早いか遅いかの違いこそあるものの、人間の本能が必ず立ち直ろうとする方角に働くと私は確信しています。些細なアドバイスが意外と役立つ事を、私は経験から知っています。  これも私に課せられた、重要な使命の一つだと心得ています。

  私はかねがね病院という所は、一般的に言って人間の修理工場だと思っています。あくまでも、社会に復帰すると言う前提で、心身に障害を受けた人が立ち寄って、その傷を癒して再び勇気を得て、社会へと戻って行く所と理解しておりましたが、これは現行の医療制度や医療の仕組みに問題があるのではと思いますが、大きい病院になればなるほど病院は高齢者で溢れています。更に此の集団の中に、治療の方法もない而も、不可逆性の難病患者が加わることはどうみても、社会的に不合理だと思います。
  私は人間が人生の終焉を迎えるに際して、動物達がそうであるように、自分のターミナルを各々に自分で選択する権利を留保していると思っています。
  結論は、「ホスピス」を含めてあらゆるタイプの又、あらゆる目的の病院を造り、更に福祉制度を充実させれば済む事であります。然し、これも制度の壁や予算の壁に突き当たる事になります。
  私達は病院でもなく、家庭でもない、施設でもない、あくまでも患者達の為の生活空間の可能性について、此の一年余りを費やして勉強し討議を重ねて来ました。
  これは、当大分県が平成9年度の厚生省の研究事業「ALS等難病患者療養環境整備事業」の、モデル県の指定を受けて、行政、医療、患者とボランティアが一体となって、四つの研究班を組織して調査や研究を行って来た事項の一つです。
  因みに、四つの研究班をご参考迄に紹介しますと、「基幹病院を軸とした、地域医療機関のネットワーク化研究班」「患者の実体調査班」「インターネット研究班」それに、「グループ・ホーム研究班」の四つのプロジェクト・チームです。
  勿論各チームとも夫々に研究を終了して報告書の提出も完了しましたが、最後まで患者の関心を集めたのが、「グループ・ホーム」でした。

  私達の「グループ・ホーム」についてのハード面からのイメージとしては、中央に広く集会室を取り、此の集会室から放射状に伸びた各室が患者とその家族の居室であり、住居であります。その定員は患者数が5〜6名を予想しています。そして、患者と家族が望むならばある程度のプライバシーは十分に守る事も出来ますが、そもそも此の構想はソフト面からみて、患者とその家族の相互扶助が目的である事を理解して、入居していただかないと全体の規律が守れない事は、申す迄もありません。
  既に申しましたが、人生の終焉に至る前の選択肢の一つとして、此の「グループ・ホーム」の発想がありました。
  そもそも人生のターミナルに繋がる福祉について、私はデパートの「お好み食堂」型が最も好ましいと考えています。和・洋・中華更に喫茶と品揃えが行き届いていて、目の前のクライアントに対して「さあ、どうぞお好みのコースを指定して、心ゆく迄ごゆっくりとお召し上がりください。」と言える体制が何よりの理想ですが、現実は制度や予算の壁に先ず突き当たり、実現は更に困難だと思います。
  然し、理想は理想として、現実は現実としてそれらを結ぶのが、青い書生の議論のようですが、私の役目と心得て可能な限りの努力を続けて行くつもりです。「グループ・ホーム」の具体化も勿論その第一歩です。

  私は健康を唯一の自慢にしてきましたが、50歳を過ぎて夢にも予想しなかった難病「ALS」を発症しました事は、既にお話を申しましたが、これを契機にして、穏やかな余生を過ごす計画も何処かに置き忘れ、目の前にいる苦しんでいる療友達や困窮しているその家族の為に役立とうと、仕事人間の悲しい「性」が目を覚ましました。
  仕事人間の常として、その「悲しい性」が常に、自分の「生きがい」に通じるものなのです。
  私は命の終焉にきて、死と隣り合わせの生活をしながら、而も、人様のお手をお借りしながらでも再び世間に役立つ仕事が出来る事は「幸甚の極み」であると同時にまさしく残された命を「私らしく生きる」事に通じると、考えています。

  此のように書き並べますと、つい自分が気管を切開してレスピレーターのお世話になっている事も忘れてしまい、一家の主を失って途方に暮れている遺族のケアーも私の仕事だとか、難病に苦しんでいる子供達にも手を貸してやらねば…と、自分が喋れない事も動けない事も忘れて、仕事の計画だけができあがります。
  何れにしても、ボランティアの皆さんのお手をお借りしての計画と行動になります。

  私の申し上げたいことは、結論に達しましたが、「ALS」の話が出ましたからには、「告知」と「気管切開と人工呼吸器の装着」について申し述べなければ、片手落ちになります。
  此の問題は、時間と紙面をかけて議論をすればする程出口が見つからなくなる、厄介な問題を内蔵していますので私見を述べるだけにさせていただきます。
  先ず、「告知」に関しては私の経験と見聞から推測して、医療関係者の大部分は得意とは言えないように思います。これは偏差値と詰め込み教育に因る受験戦争の悲劇かと思います。「人間味」のある教育は全然受けた形跡は無かったように見受けました。最近一部の医科大や医学部の入試に、面接試験が取り入れられた事は大変好ましい事であり、今後の若い医学徒に期待します。
  「告知」から「気管切開」へ、更に「人工呼吸器の装着」と一連の流れの中で患者の管理をして下さる病院があると、患者は大助かりですが、私の知る限りでは、そのような病院は多くはないようです。神経内科、外科、呼吸器内科それに整形外科とチームを編成して患者の管理にあたって下されば好都合と思うのですが、現実には医師同志の横の結び付きは私どもで考えているより薄いようです。然し、「医師会」と昨年度の研究班に「医療ネット・ワークの構築」班に、協力をお願いして早い機会に患者が属する地域社会で安心して、療養に専念出来る環境を一日も早く作りたいと思っています。

  最後に、人工呼吸器の装着を拒まれる患者が意外に多い現実に目を向けなければなりません。責任感の強い方に割合多いように見受けますが、彼等彼女等は社会的にも有能な人物です。彼等や彼女等は、家族や社会に迷惑が及ぶ事を恐れて死を選択するのでしょうが、「生きる」事の大切さを理解させるのが、「告知」のもう一つの大切な側面である事を、告知する医師はよく意識して告知をして欲しいと考えています。
  家庭に於いては、こよなく良き父であり母であり、社会に在っては、国家または地域社会に貢献してきた彼等や彼女等の生きざまについて、憲法の25条を持ち出す迄もなく大威張りで生きて下さいと申し上げたい。併せて、、日本の福祉もそんなに捨てたものでない事も申し上げたく、思っています。

  病院、主治医は勿論、介護支援センター、ヘルパー、ボランティア、その他私を取り巻いて下さる総ての人々に感謝を申し上げながら、ワープロの電源を切ります。  有り難うございました。
                                                   以上

         ■本田さんの講演をきかれた医大生・看護学生の感想を載せています。

                          前項へ