(土居喜久子さん)

  このスライドに写っている女性は、土居喜久子さんといいます。 喜久子さんは、ALSという病気にかかられています。難病中の難病と言われている病気ですが、この病気の大変さは、意識がはっきりしているにもかかわらず、身体が全く動かせなくなる、ということにあります。もし、手に蚊がとまったら、私たちは躊躇なく、それを叩いたり、追い払ったりしますが、喜久子さんはそれができません。蚊がとまってもそれを見ていることしかできないのです。

    (土居喜久子さん)

  喜久子さんは、生まれつきこういう病気にかかられていたわけではありません。このスライドは、今から約15年前の、健康だったときのスナップです。彼女は、日本舞踊を習い、小鳥の好きなごく普通の主婦でした。その生活が、平成元年の秋から変わりはじめます。食事の支度をしていた喜久子さんは、昨日まで空けることができた瓶の蓋がどうしても空けられないことを知ります。たまたまきつくしまっただけと、その時は気にもとめませんでした。年が変わり、今度は足がもつれるようになります。バスから降りようとして片足では支えられずその場で転倒したりするようになりました。同時に舌がもつれるような感覚と、激しい歯の痛みに悩まされるようになりますが、かかりつけの歯医者さんは首をかしげるばかりでした。いろいろな医者を回ってみたようですが、皆はっきりしたことはわかりませんでした。

  大分には、県立病院があります。喜久子さんもそこを受診することになりました。一通りの診察をしてみて、神経内科部長の永松先生は考えこまれました。これはALSだ、と。とてもその場では本人にその病名は告げられず、「非常に珍しいご病気です」と伝えられました。「珍しいご病気ですが、この病気を治せる医者は残念ながらいません。県病に通っていただいても、お世話することが困難です。普段は近所のお医者さんに診てもらったほうがいいでしょう」、と言われました。「何か、急なことがあったら、この救急病院に相談してください」という紹介状を書かれました。その後、ご主人が病院に呼ばれました。「お気の毒ですが、ALSという難病です。今はお元気ですが、いずれ全く身体が動かなくなり、食べることも、呼吸することもできなくなる難病です」という説明がされました。間違いないのですか、というご主人の問いに、永松先生は、「誤診であればと祈るような気持ちでいます」、と言われました。

  ここで少しこの病気の説明をしておきましょう。ALSというのはAmyotrophic Lateral Sclerosisという英語の病名の頭文字です。日本語で書くと、筋萎縮性側索硬化症と言います。脊髄の運動神経が侵され、筋肉が使えなくなり、その筋肉が萎縮するという意味をもっています。私たちが普段何気なく動かしている身体は、脳、運動神経、筋肉が、いずれも健全であるからできることなのです。例えば脳卒中になって片麻痺になられる方はたくさんいらっしゃいます。これは脳に出血や梗塞が起こって、機能が侵され、その結果侵された脳と反対側の身体が麻痺するというものです。私たちが寝たきりになる最大の原因といえます。また、やはり難病ですが、筋ジストロフィーという病気があります。子供さんのうちに発症し、成人されたころ病気が最大に進み亡くなられる方が多いのですが、これは遺伝子が原因で、筋肉そのものが障害されるという病気です。ALSはこの二つの病気とは違って、脳も、筋肉も異常があるわけではありません。脳で生じた命令が運動神経を通じて筋肉に伝わる、ということで身体を動かすことができるのですが、この中間の"伝わる"という部分、電線といってもよいこの運動神経のみが純粋にやられてしまう、という病気であるわけです。運動神経は、全身に行き渡っております。例えば脳卒中なら、どちらか片側が麻痺になるということが多いのですが、それはもう片側は無事であることも意味します。ALSではそういう左右が別になるということがありません。全身の運動神経が左右の差なく、両方が侵されてしまうのです。進み方は、皆同じというわけではありません。5年、10年たってもあまり進まず、寝たきりにならずに生活されている方もおれば、たった1年で呼吸麻痺まで来す方もいらっしゃいます。典型的なALSは、発病して約二年で完成するといわれております。このスライドにある土居喜久子さんは、まさしく典型的なALSであったことになります。

    (ルー・ゲーリック)

  実はアメリカでは、この病気は大変よく知られております。それはなぜかと言いますと、大リーグのニューヨーク・ヤンキースの主力打者であったルー・ゲーリックがこのALSにかかったからであります。彼は35歳でこの病気のために引退することになりました。引退式でのスピーチが記録に残っています。「この17年間、グランドで、ファンの皆様から常に思いやりと、勇気を与えられた私は、地上で最も幸せな人間です」。このファンへの惜別のスピーチは、アメリカ人の心に深く刻まれたようです。ルー・ゲーリックは、その引退式から二年後、呼吸不全のため亡くなられております。享年37歳でした。アメリカでは、今もこの病気のことをルー・ゲーリック病と言われることが多いと聞いております。

  平成二年の五月に、つまり県立病院を受診されたすぐ後、喜久子さんは呼吸困難を起こされました。病気の進行による呼吸筋麻痺が原因ではなく、痰がつまってうまく出せないことと、病気のことを聞かされたショックが一度に押し寄せたことでパニック状態になられたようです。ご主人は紹介状の宛て先である救急病院に連絡を取りましたが、専門医がいないからと断られたといいます。そして私たちの病院が実は、この土居さんたちのお家のすぐ近くだったわけです。ちょうど私が当直勤務に入った直後くらいだったと思いますが、ご主人から、「実は家内がALSという病気にかかっている。痰が詰まって苦しそうなのだが、なんとかしてもらえないか」、という電話が入りました。ちょっと迷いました。自分の専門は呼吸器の方で、神経内科というのは殆ど関連のない領域であるうえ、また悪いことに私が卒業した医大には、神経内科の講座が、その当時なくて、従って知識もないという状態だったからです。ただ、ALSという病気は幸い知っていましたし、現代の医学では治せない難病であるということも存じておりました。専門医でも治せないのなら、私が診ても悪くはないだろう、痰が詰まって苦しいというのなら、呼吸器の仕事でもあるわけだと考え直して、引き受けることにしました。少しして、ご主人が車に喜久子さんを乗せて病院に見えられました。車から降りて、喜久子さんは、このときはご自分の足で歩いて病院に入られました。吸引などの処置を受けられて、呼吸困難などは解消できて帰宅できるようになりましたが、近くだし、今後も診てほしいと希望されました。これが、私がこの病気とおつきあいするきっかけです。その後10年、このような形で関り続けることになるとは当時全く思いもしませんでした。

  その日より、私たちの病院に通われることになった喜久子さんは、坂道を転げ落ちるように病状が進行していかれました。5月には自分で歩いて病院に入れたのですが、6月には、ご主人に支えられてやっと歩くというようになり、7月には、車から降りるときに足に力が入らず転倒されました。私たちは、こける時、とっさに手で顔をかばいます。しかし、喜久子さんは、それが出来ず、真っ直ぐ顔から倒れてしまわれました。痛みとその精神的ショックから一時血圧が下がり、点滴をしています。8月には、足がさらに弱り、車椅子でなければ移動できなくなられました。しかし、この病気は、単に歩けなくなるだけではすみません。9月になると、今度は指が一本ずつ動かなくなっていきました。自宅では、なんとか立ち上がろうとしては転倒し、体中あざだらけの状態になられています。10月になると、食事がうまくのどを通らなくなってきています。おなかは減るから、ごはんは食べたい、しかし、飲み込もうとする力が入らない。毎食に一時間以上かかっても口に入るよりこぼれ落ちてしまう方が多くなってしまいます。食べれなくなって、体重が激減しはじめました。健康なときは60キロ近くあった体重が、みるみる減り、ついに37キロになってしまいました。それでも彼女は、必死で食べようとし、動かなくなる身体を動かそうとし、転倒し、声にならない声を出して生きていこうとされました。なんとか無事正月を越しましたが、明けてすぐ、高熱が彼女を襲いました。診察したところ、肺から異常な呼吸音がきかれました。痰が気管支のなかで転がる音です。無理に食べ物をのどに押し込もうとして、気管の方に入り、それが原因で肺炎を起こしていたのです。喜久子さんは、入院になりました。

  肺炎は、抗生物質の点滴投与などで、そう時間もかからず治まりましたが、やはり、食べれないし、喋れない、動けないという状態が続きます。それもますますひどくなっていくわけです。我慢しようとこらえてきたものが、その最後の糸が切れたようでした。時間さえあれば、ご主人をなじり、自分の病気をのろい、運命を恨んで、一日中怒っているか、泣いているかの、荒んだ精神状態に陥られました。いっしょに病室に泊まりこまれているご主人に、朝の4時から文字盤を持たせて、怒りつづけている姿を看護婦が見ています。ご主人に対して、お前、と文字盤に書く喜久子さんの鬼気迫る姿が当時の看護記録に残っています。そしてついに運命の日がやってきます。

  私は、その日、外来で患者を診ていました。11時ころではなかったかと思います。病棟から緊急の内線電話が入りました。「土居さんの呼吸が止まりました!」 この連絡を聞いて、私は外来診察室を飛び出し、二階にある病棟に駆け上がり、喜久子さんの部屋に飛び込みました。白い顔になった喜久子さんに、看護婦が蘇生用のアンビューバックをあてて、人工呼吸を始めているところでした。「今まで起きておられたんです。ちょっと咳をしたかなと思ったら意識がなくなって、呼吸がとまったんです」、とその場に立ち会った看護婦が報告してくれました。私は、いつものように挿管を行い、気管カニューレを人工呼吸器につなぎました。

  ALSの患者さんの呼吸停止の危機は、二通りの道があります。一つは徐々に呼吸筋の力がおちて、十分な空気が吸えないようになり、またはけないようになって、血液中の酸素が下がるとともに炭酸ガスが増えて、麻酔にかけられたように、まるで眠るように意識がなくなり、そのまま呼吸が止まってしまうという、CO2ナルコーシスという状態があります。もう一つが、やはり呼吸筋の力が落ちるためですが、気管の中に痰がつまったとき、呼吸筋の力が落ちているため、それを咳で口に出せないことです。痰が大きな気管支でつまると、それが原因で窒息してしまいます。一刻を争う状態ですが、喜久子さんは後者だったのです。

  人工呼吸機につながれて、機械による換気をうけて、一時下がった血圧、脈拍とも、もとに戻ってきました。約30分くらいたったころ、彼女が目ざめました。RCUというリカバリールームの中で意識が戻った彼女が、私の方を見ながら、文字盤を出すように目で指示しました。一字づつ文字を拾ってゆくと、それは「ど・う・し・て・た・す・け・た・ し・ん・だ・ほ・う・が・よ・か・つ・た・」という言葉になりました。そこまで伝えたとき、涙が溢れるように出て来て彼女はそれ以上文字盤を目で指示できませんでした。私もその傍らで立ちつづけることしかできませんでした。緊急の気管チューブは、口を通して気管に入れます。意識があるときはとても苦しいものです。よくなって抜ける可能性のある人は、短期間ならそのままにして早期の離脱をはかりますが、彼女にはその可能性はもうありません。長期間耐えられるように、気管切開とし、また鼻から入れていた栄養チューブも、お腹を通して直接胃になかに入るようにしました。胃瘻といいます。とにかく、呼吸と栄養を確保し、まあ、これまでのような生命の危険は去った、私は、そう思いました。ところが、現実はそんなに甘くはなかったのです。

  当時の内科の教科書を見ますと、ALSの患者は、人工呼吸器につないでも、平均二年で死亡するので、その適応は慎重にされねばならない、と書かれています。たとえ人工呼吸にしても、なおるわけでもなく、肺炎を頻発させ、結局苦しめるだけだから、安易に人工呼吸するな、というのです。つまり、死なせてあげろということです。しかし、最初にALSの侵される部分は、運動神経だけだとお話ししました。脳も、筋肉も侵されるわけではないと。それだけではありません。当然、肺や胃、肝臓などの内臓も侵されるわけではないはずです。それが、なぜ平均二年で亡くならねばならないのか。それが現実のものとなりました。

       

  このスライドは、やや専門的になりますが、人工呼吸器につないだ後の喜久子さんの状態を示しているものです。WBCというのは白血球の数を示しています。1万以上というのは、かなり炎症が強い状態を示します。CRPというのは、その炎症反応そのものを示します。CRPの正常値は0.6ですから、ここに並べてある数字はかなり高いものです。これは人工呼吸に切り替えたあとの喜久子さんが起こした肺炎の数を示しているのです。5月から人工呼吸器に切り替え、最初の3ヶ月くらいは、比較的平穏に過ぎています。ところが、9月に最初の肺炎を起こし、その後はご覧のように、次から次へと繰り返して肺炎を起こされています。特に年明け後の平成3年以降は、ほぼ毎月のように繰り返しています。本人も苦しかったと思います。痰がたまる、熱が出る。息が苦しい、それはある種の地獄の日々です。病状が悪化していった平成二年の秋とはまた別の地獄といえます。しかし、苦しいのはこちらもです。なんでこんなに肺炎を繰り返すのだ!どうしてなんだ!とそのつど酸素を補給し、痰を吸引し、抗生物質を投与し、ときにはその抗生物質によって肝臓が痛められたりと息を抜く暇さえないような状況でした。これでは二年なんて、到底持たせられない。やはり、教科書に書いてあるのは真実なんだ、と顔から血の気が引く思いでした。何度も看護婦達とカンファレンスを開いては、何かいい手はないかとディスカッションしたものです。誰とはなく、一回換気量を増やしてみたらどうだろう、という意見が出ました。人工呼吸器は、肺に送り込む空気の量、その回数、圧力などを設定します。そのうち一回換気量は、当時の常識として400ccにしていました。喜久子さんの標準体重がほぼ40キロとしてキロあたり10ccといいうことになります。その値が、当時の常識と、今お話ししました。通常、人工呼吸器に接続する患者さんというのは、肺に重大な問題が生じております。例えば喘息であったり、心不全によって肺に水が溢れる肺水腫であったり、あるいはARDSといった肺胞に蛋白質が出て来て呼吸ができなくなったり、という場合が大半です。そういう患者さんに対して、多くの空気を入れるとたちまち気道内圧といって、気管の中の空気の圧力が上昇し、肺が破れたりするなどの致命的な合併症が引き起こされてしまうのです。そのあたりから、常識的に一回換気量が400からせいぜい500ccという値になっていたのです。しかし、これらは繰り返しますが、肺に問題のある患者さんでの話しです。先程お話ししましたように、ALSの患者さんの肺は正常です。なら、もっと増やしてみてもよいのではないか。私たちはときどきあくびをします。私たちが意識をしないで普段呼吸している量は、やはり400から500ccなのです。しかし、あくびをする時の量は、もっと大きく1000cc以上にもなります。また、肺活量といって、目一杯の呼吸を行って肺に入る量を測定すると、3000から例えば私などは5000ccあります。なら、少々増やしてみてよいのではないだろうかと、試してみることにしたのです。効果は劇的でした。一回換気量を600ccにしてみたところ、あれ程くりかえし生じていた肺炎が、ほとんどなくなったのです。ふたたびこのスライドをご覧になってください。600ccに増量してからは、ほとんどCRPの上昇する事態が生じておりません。年に一回からせいぜい二回くらいに減少しています。さらに、ここ5年以上は、全く肺炎自体を起こしていないのです。ALSならキロあたり15ccでいこう、それが私たちの考えになりました。例えば体重60キロの男性なら、一回換気量が900ccということになります。これはあまりに常識はずれではないかと、当初批判されました。非生理的ではないかと。あるいは酸塩基平衡が異常になるのではないかと、呼吸器の研究会や、学会で報告したときに批判を受けました。実は当時ではそのくらい非常識な設定だったわけです。確かに、このような大きな量で換気しますと、過呼吸ということに近い状態が身体に生じます。過呼吸というのは、若い人に多いのですが、原因もなく呼吸困難を感じてしまい、呼吸のしすぎによって血液中の炭酸ガスが下がりすぎ、その結果血液がアルカリ性となって、全身が痺れて動けなくなる状態です。実はその通りで、先程お話しした大きな換気量で人工呼吸を行いますと、炭酸ガスが普通よりずっと低下してきます。しかし、身体のしくみはうまくしたものでそのアルカリ性を打ち消すように腎臓が働いて、PHを正常に戻してくれるのです。腎臓が、尿に酸を捨てないで、つまり血液中の酸を増やしてアルカリ性から中性の方に引き戻してくれるのです。では、気道内圧の上昇がないのか、といいますと、これもそのままでは生じます。そちらは、一回の換気に時間をかけてやることによってクリアすることができました。要はゆっくり、おおきな呼吸をしてもらうということになります。こうすると気管支の奥にたまった痰が、空気鉄砲の原理で上の方に押し出されます。痰が気管支の奥にたまったままになると、そこから先にきれいな空気が入らず、なかの空気も吸収されて、空気のない肺ができてしまいます。私たちはそれを無気肺と呼びます。そして、この無気肺こそが、ALSの患者さんに繰り返し起こる肺炎の原因だったのです。

       (TT無気肺)

  このスライドは、あるALS患者の胸部のCT写真です。右の肺の下の方に大きな塊があるのが見えます。これが無気肺です。この写真は、他の病院から私たちの病院に転院されてきたときのものです。この患者さんの転送時での換気量は450ccでした。私たちは、それを900ccに引き上げました。その3ヶ月後のCTをお見せしたいと思います。

        (TT治癒後)

  これが、同じ患者さんの3ヶ月後の同じ部位の写真です。さっきの塊の影はもうありません。もう一例お見せします。

        (KY無気肺)

  この患者さんは、まだ人工呼吸にされてたった3ヶ月のときの写真です。もう既に無気肺が生じています。当院に転院されて、同じくキロあたり15ccに切り替えて、一ヶ月後の写真と比べてみましょう。

        (KY治癒後)

  どうでしょうか。もう無気肺はありません。この方法を実施するようになって、私たちの病院では新たな無気肺の発生は生じていません。今、10人の患者さんをこの方法で治療していますが、一切生じていないのです。それとともに肺炎も全く生じなくなりました。

     (土居喜久子CT)

  これは、土居喜久子さんのCT写真です。この左の心臓の横に、スポンジのようになった部分があります。これが、あの繰り返し肺炎を起こしていた原因の部位です。この部分が無気肺を生じ、炎症を繰り返して、このようなボロボロな状態になったのです。しかし、換気量を増やしてからは、このいたんだ部位はそのままですが、肺炎を起こすことはなくなったのです。これは大きな進歩でした。平均二年という教科書の記述を、過去のものにすることができたのです。そして、そのことは単に肺炎を起こさないというだけでなく、今に通じる大きな副次的な収穫ももたらしました。すなわち人工呼吸器をつけたまま在宅療養ができるようになったのです。しょっちゅう肺炎を起こしていたら、到底在宅などは実現しません。病院にいて、いつも看護婦や医者の観察のもとで、早期発見し、抗生物質の投与などの適切な処置を受けなければ、命も危ないのが肺炎です。そのようなことが繰り返している状態で家に帰れば、重大な結果が待ち受けているのは火をみるよりも明らかといわねばなりません。私たちはこの人工呼吸の方法を、ハイボリュームベンチレーションと読んでいます。ハイボリュームとは大きな量ということです。ベンチレーションは換気のこと。すなわち大きな換気量で人工呼吸を行うことです。

      (本田昌義さん)

  この人工呼吸機をつけたまま、在宅療養を行う、ということのパイオニアが、このスライドの男性です。名前を本田昌義さんといいます。土居さんより二年遅れて発病し、同じく二年くらいで人工呼吸器をつけねばならないようになりました。元気な頃は、東京の証券会社で活躍されていた本田さんは、発病後、実家の大分に戻られました。人工呼吸器となった当初は、落ち込まれ、絶望され、安楽死、安楽死と繰り返し奥様に頼んでおられました。もちろんそんなことは出来ません。その本田さんが、精神的に落ち着きが出たときに、最初の目標にされたのが、在宅、だったのです。ご家族に、家庭での処置を覚えてもらい、何回かのリハーサルを行って、半年後には思い切って在宅療養に踏み切られました。現在、本田さんは、日本ALS協会大分県支部の支部長をされています。単に在宅であるだけでなく、車に乗って、県内のみならず他県の患者さんを励ましに行かれたりしています。また、昔とった杵柄で、株もやられているようでして、先日えらく不機嫌だなと思ったら、「実は株で100万損をしたみたいなんですよ」、と奥様からこっそりと教えてもらいました。

  話を、喜久子さんに戻してみます。身体の方の管理は、ハイボリュームベンチレーションでうまくいくようになりました。ではこころの方はどうだったのでしょうか。ALSの患者さんは、進行すると普通声が出せなくなります。普通というのは、例外があるからですが、土居さんは声を失いました。普通はこのように文字盤を介護の人が持って、指をずらしながら患者さんの求める文字を一字づつ拾っていきます。これは大変な作業で、一つ間違うと意味をなしませんし、また長い文章では読み取る方が前の言葉を忘れてしまうこともよくあります。それで、しかたなく、短い言葉、すなわち命令、お願い、はい、いいえ程度のコミュニケーションで終わらざるをえません。呼吸器につながれた土居さんは、それまでのように激しくご主人に噛みつくということはなくなりましたが、今度は一日中泣きとおして暮らすというような、落ち込んだ状態になられました。毎日ただ泣いているだけの喜久子さんの姿をみて、私たちに何かできることはないかと、またディスカッションを繰り返す日々がきました。そのころ、目で打てるワープロがある、という情報が医療機械の業者さんからもたらされました。まだ、大分には一台も入っていないというその機械は、今はもう過去の遺物になったMSXパソコンという、当時のゲーム機を改造して作られた特殊なワープロ専用機でした。

  (土居まぶたセンサー)

  この写真に写っている土居さんがされている眼鏡に何かついていますね。これがセンサーなんです。このセンサーから赤外線を出して、目があいているとその赤外線は黒目の中に吸い込まれて反射しませんが、まぶたを閉じると、そのまぶたによって赤外線が反射して、センサーについているCCD、これは光を検知することができるものなのですが、それが反応して電気信号を送る、そういいう仕組みでスイッチが入るようになっているのです。

     スライド(略)

  これが画面です。五十音の文字が並んでいるのがわかりますでしょうか。ここをカーソルが横に動いていくわけです。まず行をまばたきして選び、次にその行の中でカーソルが縦に動いて文字を一つ一つ指していくのです。そこでもう一度瞬きをすると、その信号が読み取られ、文字が選ばれて、それを続けていくことによって文章ができるというものです。これは大変時間がかかります。それこそ原稿用紙一枚を埋めるのに、一時間も二時間もかかります。最近では、土居さんは、熟練者になられて、カーソルのスピードも目一杯あげて、とても早く打たれるようになりましたが、最初のころは本当に時間がかかったものです。第一、こんな病気になるまでワープロなどとは無縁な生活をされていたということもありましたし。しかし、これを使うと、設定さえしてもらえば、介護の人に文字を読んでもらう必要もなくなります。難しい文章も、ながい文章も、時間はかかっても一人の力で完成させることができるのです。もう、はい、とかいいえ、だけの単語ではありません。美しい文章も自由に書くことができるのです。この目で打つワープロという機械を得て、喜久子さんの毎日が一変しました。朝から夜まで泣いてばかりだった彼女が、一心不乱にワープロと取り組むようになられたのです。一ヶ月もしないで、病気になってから疎遠になっていたお友達にお手紙を書かれるまでになりました。最初はごく親しい昔からの友人へのお便りでしたが、それは徐々に同じ病気で苦しむ方々への励ましの手紙に変わっていきました。人を励ますことは、自分自身をも励ましていることなんだな、ということが僕らにもわかりました。しぼんでいくばかりだった彼女の世界が、大きく広がることになったのです。

      (土居さんの本)

  この本をご存知でしょうか。まぶたでつづるALSの日々。喜久子さんが、目で打つワープロで一生懸命打たれた本です。病気が進行していくときのご本人の心のありかたが、決してきれいごとではなく淡々と書き綴られています。今日の講演を聞いていただいた皆さんには、是非ご一読お願いしたものと思っています。白水社から二年前に出版されています。この本を出されたことにより、たけしさんのアンビリーバブルなどの番組でも取り上げられ、喜久子さんは有名人になられました。ついでにわき役で私も登場したものですから、昔の友達が偶然それを見て、びっくりして飯をのどにつめそうになったぞなどという抗議を受けたりしました。

  私たち病院のスタッフが考えた、もう一つの彼女の世界を拡げる取り組みは、病室から出てみよう、というものです。人工呼吸器をつけているといっても、安全にそれを維持することができるようになり、またその人工呼吸器も、アメリカから輸入された機械なのですが、車のバッテリーでも動くようになっているのです。喜久子さん、外に出てみましょう、という私たちの勧めに、彼女は家に帰ってみたい、と言われました。平成3年の正月明けの緊急入院から、もう一年以上病院から出ていないのです。さて、外に出るとなると、車椅子に人工呼吸器を取りつけないといけません。この作業を、私たちの病院に、喘息でかかっておられた神谷さんという板金工場をお持ちの方が、こころよく引き受けてくれました。車椅子の後ろに荷台を溶接してくれて、人工呼吸器とバッテリーを置けるようにしてくれています。自宅近くまでは福祉タクシーに乗って、そこから降ろしてもらって、ご近所の方々の出迎えを受けながら、彼女は庭からお部屋にあがりました。このときはたった3時間の帰宅でしたが、これ以後、喜久子さんとどこかに行こう、というのが私たちの季節ごとの年中行事になりました。

       (海でのレク)

       (かぐら女湖)

  大分市にある平和公園での春の桜、佐賀関での夏の海、秋の湯布院、そして近くの西寒多神社への初詣。ともすれば仕事ばかりで季節の移りに気がつかない私たちも、土居さんのおかげでそういう季節の変化を楽しませてもらえるようになりました。外出する二日前から、喜久子さんははたから見ていても嬉しそうで、でも女性なんです。外出するときは、こっちがまだかなあと思うくらい念入りにお化粧させるのですね。このころは、私たちが診ていた難病の患者さんは、まだ喜久子さんだけでしたから、私たちも余裕をもって、この仕事が楽しめたなあと、なつかしく思い出されます。

  ALSの医療は、喜久子さんの経験から得たハイボリュームベンチレーションの確立がその出発点と言えますが、ALSの方々の社会運動は、この喜久子さんの初めての外出が出発点ではなかったかと思っています。この外出の後で、私は、喜久子さんからお手紙をいただきました。「あの時助けていただいて、本当にありがとうございました。夢のなかでは手足も動き、人様のために一生懸命働いています」と書かれていました。もう一日中泣きはらす彼女ではなくなったのです。そして、彼女が人のために働いているのは、決して夢のなかだけではないのです。そのことについてこれからお話しさせていただきます。

  ALSにかかられた患者さんは、それまで一人一人別々に、ひっそりどこかの病院に入院し、ひっそり人知れず亡くなられるという状態が続いていました。それぞれみんなの頑張りや、工夫がその人だけのもので終わり、他の患者さんのための共通の財産にならずにいたのです。介護をする人たちの横のつながりもありませんでした。ところが、全国を見れば、日本ALS協会というものがあって、機関紙を出して、活発に活動されているのです。当時、日本ALS協会の事務局長をされていた松岡さんが、大分にも協会を作りましょうと足しげく通ってくれていました。残念ながらもう故人になられましたが、この松岡さんの熱意が、土居さんご夫妻を動かし、本田さんが支部長に就任され、大分にも日本ALS協会の支部が設立されることになったのです。また、この結成準備会のとき、私も呼ばれて行ったのですが、その時記念講演をしていただいた、県立病院神経内科の永松部長と知り合いになることができました。私は、それまで呼吸器の仕事が専門でしたが、この日から、大分の神経内科の皆さんとのおつきあいすることができるようになったのです。永松先生からは、「この難病はぼくら神経内科医にしか出来ない仕事だと思っていたけれど、違う分野の人が、このように患者さんを生き生きと療養させているのを見て、それが考え違いだと気がついた。是非大分の難病の皆さんのために一緒に頑張りましょう」、と言っていただきました。

  日本ALS協会大分県支部の結成は、単に患者さんや家族の方々を結びつけただけでなく、私たち県下の主治医達もまた結びつけてくれたのです。以後、年一回行われる県支部の総会は、200人を越える支援の人々の集いの場となりましたし、多くの患者さんにとって、一年ぶりの再会の場でもあります。もっとも最近では、患者さんたちは、どんどん在宅になり、家からも出て、それぞれに交流されているのはでありますが。

  いま、どんどん在宅になり、と申しました。土居さんに初めて出会った10年前、この病気で在宅など、夢のまた夢の話しでした。そんな危険なことができるわけがないと。全国的にみても、症状の比較的軽い方が、小数頑張っておられるという程度ではなかったかと思います。それに、残念ながら当時は死亡率も非常に高く、在宅に切り替えたが3ヶ月で亡くなられた、などという話しばかりでした。私の方も、在宅ということを、何か病院から追い出す、難病はやっかいだからお引き取り願う、というようなマイナスのイメージを持っていたように思います。もちろん何か急な事故でもあれば、病院にいなければ助からないということもあります。でも、一応安全な人工呼吸の方法は確立できた。注意さえすれば、そう事故が起こるものでもない、というくらいまでは技術的に進歩した段階で、あるショッキングなことを、患者さんや、介護にあたっていた人から聞かされたのです。それは、「先生、家に帰りたくない患者さんっていると思いますか」というものでした。そうです。もし治るのなら、病院に入院もしましょう。つらい手術だって我慢しましょう。だけど、治るのですか?入院していても良くなることはないのでしょう?だったら家に帰りたい、そういうことを聞かされたとき、ああそうなんだ、と目から鱗の思いでした。自分のそれまでの考えが独り善がりなものだと気づきました。考えてみたら当たり前ではありませんか。確かに一見病状は重そうに見えます。人工呼吸器をつけたまた家に帰るなんて10年前、私たちは想像もできませんでした。しかし、東京では、日本ALS協会が、熱心に、粘り強く厚生省と交渉し、在宅人工呼吸療法というのを、保険医療に認知させてくれました。つまり、それまで、もし人工呼吸器の患者さんが在宅をしようと思えば、一台最低でも200万くらいかかる人工呼吸器を自費で購入しなければなりませんでした。それが、例えば在宅酸素療法のように、機械を病院が購入あるいはリースを行い、患者さんの家に設置し、管理することが出来るように変わったのです。そして、その先鞭を切られたのが、先にお話しさせていただいた元証券マン、本田さんなのです。しかし、その当時、本田さんの存在はあくまで例外でした。しかし、半年、一年と元気にすごされる本田さんの姿を見て、これなら自分も出来るのではないかと、他の患者さんが思わないはずがありません。一人、また一人とその後を続いていかれました。おかげで私までが、それまでの長期人工呼吸の専門家から、今度は在宅人工呼吸の専門家などと言われるようになりました。その甲斐あってか二年前の日本神経内科学会総会のシンポジウムで、この在宅人工呼吸について、喋らせていただけることになったりしました。そのシンポジウムはとても盛会で、600人以上のドクターが集まられていましたし、シンポジウムが終わった後も、何人も私のところにやってこられ、いい話だった、ありがとうと言って下さいました。また自分はこういう症例を持って苦労しているが、あなたのいうハイボリュームベンチレーションは可能だろうかなどというご質問も数多く受けました。

  ここで、今在宅で頑張っていらっしゃるALSの患者さんのお姿を見ていただきたいと思います。

     スライドいくつか(略)

  今私は約10名の人工呼吸管理となったALSの患者さんを診させていただいておりますが、そのうち6名が在宅療養中です。みなさん、在宅人工呼吸で頑張られているのです。この方たちには、入院中と明らかに異なる点があります。ALSというのは、顔の表情は比較的保たれる方が多いのですが、在宅されている皆さんは、それにも増して表情が豊かになられています。それはもちろん夫婦げんかもされますし、子供といさかいがおこることもあります。でも、家族にとって、入院中とはある点が決定的に違うのです。それは何でしょうか。それはその人がそこにいるという、存在が違うのです。確かに動くこともできませんし、そういう意味では役に立たないかもしれません。でもその人がそこにいてくれて、話を聞いてくれたり、適切なアドバイスをしてくれるのです。家族にとっての大黒柱が同じ家にいるということが、いかに大きな意味を持つのかということをわからせてくれます。

      (末光幹治さん)

  この患者さんとご家族の皆さんの頑張りを見て、動かされたのは私たち病院関係者だけではありません。次に頑張ってくれたのは、障害者施設の関係者の皆さんなのです。ここに写っていらっしゃるのは、末光幹治さんという、もとガラス職人の方です。大分市乙津という鶴崎に近いところで自宅療養されているのですが、ここの家庭にヘルパーを派遣してくれていた、百華苑デイケアセンターが、施設デイケアをしてくれるというのです。それも一回だけというのではなく、毎週、お家まで迎えに来てくれて、施設までバスで運び、施設のお風呂に入れてあげようというのです。最初だけは私も同行しました。施設にとっても人工呼吸器の患者さんを迎えに行くのは始めてのことでしたから。でも今は、皆さんベテランになられています。もちろん、私は、もう同行していません。この末光さんへの取り組みが、今度は大分市での常識になっていきます。今では他の在宅の患者さんも、別の障害者ケア施設に、週一回から多い方は二回も迎えにきてもらって、デイケアを受けておられるのです。

  これが、大分市でのALSという難病に不幸にしてかかられた方々の、この10年間の歩みです。10年たって、白髪の増えたかたもいらっしゃいます。でも、この10年を患者や家族の皆さん、そして支援していただいた皆さんと、ともに悩み、ともに喜び、あるいは病状の悪化で冷や汗を流したりしてきたことが、とても実り豊かな年月だったと思います。難病にかかってしまうことは不幸なことです。特にALSなどという難病中の難病にかかってしまうという不幸は堪えがたいものがありましょう。でも、しかし、こうは考えられないでしょうか。不幸にしてこんなひどい難病にかかってしまったけれど、この大分県に住んでいてよかったと。あるいは、この日本に住んでいてよかったと。また、あなたに出逢えてよかったと。もしそう言っていただけるとしたら、それは私たちの幸せそのものではないでしょうか。そういう行政、そういう医療、そういう個人でありたいと思うのです。考えてみてください。例えば、ここがコソボであったり、チモールであったり、そういう世界の紛争地域であるならば、絶対にこういう方々は生きていくことはできません。そこでは、健康な人でさえ、明日の命も知れないのです。社会の成熟というのは、こういう最大限のハンディを持たれたかたも、ともに生きていける世の中を作る、ということではないでしょうか。こういう方々を支えるということは、私たち一人一人が社会の成熟のために働いていることでもあるのだと、思わずにはいられません。ご清聴ありがとうございました。

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